風カルチャークラブのパンフレットVol.19春季/夏季号が完成しました。
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私が生まれ育ったところは東京、小石川の雑司ヶ谷である。
武蔵野台地が縄文海進で侵食された、谷に落ち込む坂の途中に住んでいた。谷はほぼ南北に1キロで、北、東西の台地に囲まれ、南で神田川とぶつかる(江戸川橋)。
その谷の北のどんづまりに、子供のころよく遊んだ護国寺がある。真言宗豊山派の大本山で、綱吉の生母、桂昌院の発願により創建されたこのお寺は、都内では有数の広い境内をもつ。江戸期には倍くらい広い敷地であったそうだが、明治の初期に東半分が皇族の墓地(豊島ケ岡御陵)となった。
入口の仁王門を進むと石段があり、不老門をくぐると大きな本堂(観音堂)が建つ。その奥にお寺の墓地があり、池袋に行く道路を渡れば雑司ヶ谷墓地だ。もちろん、境内も墓地も遊びのテリトリー。
お気に入りの場所は、山門を入った右側にある“お富士さん”。鎮守として浅間さまでも祀られていたのか、ちょっとした岩場のような山で、登ったり降りたり、なにをするでもなく時間をつぶした。その昔は、お山のてっぺんから富士でも眺めたのだろう。
さて、その谷の町名は“音羽”と言い、門前町(参道)をなしていた。遊びまわっていたころは、お寺に近い処の東西には青柳という町名も残っていた。祖母の話しでは“音羽”“青柳”という奥女中がここに土地を与えられ、その名前から町名がついたという。今は南(江戸城側)から音羽一丁目と二丁目に統一されたが、昔はなんと、わずか1キロの間に一丁目から十丁目まであったように記憶している。一般に当時は、丁目の数字の若いほうが江戸のお城に近いのだが、敬意を表したのか、ここは護国寺に近いほうが一丁目であった。各丁目ごとに大人と子供のお神輿があり、祭りの日には計20以上もの神輿が音羽の谷を練り歩き、南のほうにある神社に向かった。じつに賑やかな祭りであったが、家が音羽の町からわずか数メートルはずれていたため、口惜しいかな、神輿は担げなかった。
楽しみは護国寺の縁日。花まつりや四萬六千日、盂蘭盆会には、多くの屋台が立ち並び、祖母や母親にわずかなこづかいをせびり、仲間と出かけた。おおっぴらに買い食いができ、めずらしいところでは雷魚釣り、釣れたってどうするんだろうと思いながらも、ついつい、こづかいを減らしてしまう。いかがわしい見世物小屋、ハッカパイプ、定番のわた飴、金魚すくいなどなど、、、懐かしい。
護国寺には当時、有名なおこもさんがいた。うわさでは、相当なインテリで有名大学出なのだそうだ。夕暮れ時の境内で出会うと、お寺の怖さがいっそう増し、急いで家に帰ったものだ。
奇妙な話をもう一つ。家の庭のがけ下には女学校の校庭があり、その端から台地(目白台)に向かった崖の途中に2メートルくらいの細い滝(湧き水)が流れていた。滝の奥には“お不動さま”が石の板に彫られており、なにか意味のある場所なのだろうと思っていたが、母の話しでは昔、その滝で行者さんが水垢離をしたらしい。お大師さんの護国寺か戦災で焼けた目白不動の行者さんだったのか、東京のほぼ真ん中での話しである。あのおこもさんは護国寺の行者さんだったのだろうか、、、。
音羽の谷以外は、今もあまり変わっていないのかもしれない。坂の上にはお寺や神社、数多くの学校、旧大名家の庭園や広い敷地の邸宅があり、都内でもめずらしく緑の多い場所。
驚くほど変わったのは音羽の町並みだ。首都高が走り、高いビルが立ち並ぶ。
(水野 恭一・風の旅行社東京本社)
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